4.
五月四日。
昼過ぎから啓太は学園に帰る準備を済ませ、家族とのんびり過ごしていた。
母や朋子には「どうして誕生日までいられないの?」と残念がられたが、そこは適当に啓太同様帰省していたクラスメートが学園に帰るついでに同乗させてくれるのだとごまかした。
……本当のことはとてもじゃないがまだ話せないので。
さっきから台所では朋子が(母に手伝ってもらいながら)一生懸命ケーキを作っているらしく、ガシャンガシャンと派手な音が聞こえてくる。
本当に何が出来るのか(いや勿論ケーキなのだが…)心配になった啓太が台所に行ったら「出来るまで入っちゃダメ!」と追い返されてしまった。
というわけで手持ち無沙汰になった啓太は携帯を手元に置いて、父と居間でテレビをぼんやり見ていた。
時折、父は新聞を見ながら学園での生活は上手くいっているか啓太に短く尋ねてくる。
言葉は少ないが気にしてくれているのがわかって嬉しい。だからそれには素直に頷いた。
この連休の間、啓太は中学のときに仲のよかった友達や期間は短かったけど以前通っていた高校の友達と集まって遊び、そして話をした。
BL学園での生活についてもいっぱい聞かれたし、自分からも多くを話した。
華やかで個性的な先輩やクラスメート達のこと。
寮生活のこと。
MVP戦をはじめ、転入してからあったさまざまな出来事。
友達は興味深そうに聞き入って、質問してくる。
楽しかった。
友達にも「楽しそうだな」と言われた。
そして「BL学園に行っても変わってなくて安心した」とも。
確かに、自分自身何かが変わったとは思わない。
けれど、改めて感じる。
今の自分の居場所はやはりBL学園にあるのかもしれないと。
まだまだ自分に自信はもてないけど、あの学園で自分だけが誇れる”何か”を見つけられたらいいなと思う。
自分を必要としてくれた、大切な和希の側で。
「!」
すぐ側に置いていた携帯が突然鳴り出した。
音だけで誰からなのかはすぐにわかる。
啓太はそれを手にとり、目線と指先を動かす動作で父に自室に行くことを告げ居間を出た。
「はい、もしもし」
階段を上りながら耳を澄ます。
かすかに聞こえるのは、搭乗手続きのアナウンスだろうか。
空港?
『――啓太?』
「……ぁ」
聞きなれたはずの声が、やけに愛しい。
「……うん」
名前を呼ばれただけなのに、胸がいっぱいになる。
幸せな気持ちが身体中に浸透していく。
『今、日本についたんだ』
「もしかして…空港から? ざわついてるし…アナウンスが聞こえた気がした」
自室に入ってベッドに腰掛けた。
軋むスプリングの音。
『そうだよ』
「……お疲れ様」
電話の向こうで和希がくすっと笑ったような気がした。
『ありがとう』
「ところで…電話なんかして平気なのか? 時間…」
『あと少しだけなら平気だよ。迎えの車が渋滞に引っかかって遅れてるんだ』
「そっか、それならいいけど…」
『…支度済んでる?』
「えっ」
『……啓太、わかってるよな? まだ仕事あるから今すぐってわけにはいかないけど…夜には迎えにいくからな?』
「わっ、わかってるよ!」
『課題ちゃんと終わったか?』
「和希……お前なー…。そんなの終わってるに決まってるだ……あっ!」
『……啓太?』
「あ、あの……ごめん、和希。英語と数学でわかんないトコあったんだ…あとで教えてくれる?」
『……いいよ』
「……笑うなよ」
表情は見えないが、笑いを堪えているのはわかる。
『はは、ごめんごめん。やっぱり啓太だなぁって思っただけだから』
「なんだよそれ…」
『久しぶりに啓太と話せて嬉しいんだよ』
「……っ!」
反則だ。
突然、恥ずかしげもなく素直にこんな台詞を吐くなんて。
「和希……お前、ズルイよ」
『…そうか?』
クスクスと笑ってる。
和希は全部わかってて自分の反応を楽しんでるんだ。大人の余裕で。
「ズルイよ…もう」
啓太はふうと嘆息する。
そして。
何気なく窓の外を見た。
綺麗な青い空。一筋の飛行機雲。
まだ会えないけど、もうこの空の下に和希もいるのかと思うとより近く感じて嬉しい。
だから。
一度だけ深呼吸して、携帯を持つ手に力を込めた。
想いが伝わりますように。
「……会いたい」
『啓太?』
「俺も和希と話せてすごく嬉しい。和希の声聞いたら…和希に…早く会いたくなった」
『!』
電話の向こうで息を飲むのがわかった。
「……和希?」
『啓太、お前……』
「え、なに?」
『まったく…ズルイのはどっちだよ…』
嘆息する和希の声。
「?」
『目の前にいたら絶対キスしたのに』
「かっ、和希」
『勿論、それだけじゃ済まさないけど』
「……っ」
もし今目の前に和希がいたら、その視線に飲まれて身動き一つ取れなくなっているような気がする。
だって、声だけで…もう身体がこんなに熱い。
『なるべく早く迎えに行くから。支度ちゃんと済ませておけよ?』
「…………うん」
頷くのもなんだか照れくさい。
『あ、啓太…ちょっとゴメン』
「?」
『ん、あぁわかった。今行く』
近くで誰かが呼んでいるのだろう。普段とは違う和希の口調。
『ごめんな、慌しくて。車が着いたみたいだ』
「ううん。電話、嬉しかった。仕事頑張れよな」
『急いで片付けるよ。俺も早く啓太に会いたいから』
「……ばか。……でも、待ってる」
『あぁ。じゃあ、また後で』
「またな」
電話が完全に切れるまで、啓太は余韻に浸っていた。
ツーツーという機械音が聞こえて携帯を閉じる。
それを握り締めたまま、ベッドに倒れこんだ。
目を閉じて、和希と交わした会話を思い出す。
我ながらちょっと恥ずかしいことを言ったような気もするが、それよりも嬉しさが勝っていた。
(もうすぐ…和希に会える)
会ったら最初に何を話そう。
数時間後の自分を想像して心が躍る。
家中に満ちるケーキの甘い香りが、甘い想像に更に拍車をかけたのだった。
5.
夜の闇を、流れゆく幾つもの光。
高速で行き交う車の群れ。眩しく煌めく街の灯り。
その中に啓太もいた。
「啓太、酔いそうになったらすぐ言えよ?」
「隣で運転する和希がハンドルを握りながら言った。
「俺は平気だけど…和希こそ大丈夫なのか?」
「ん、何が?」
「だって…お前ついさっき海外から戻ったばかりなのに…長時間の運転なんて、さ。仕事続きで…あんまり寝てないだろ?」
前方の信号が赤に変わる。
和希は啓太の指摘に目を逸らして頬を掻いた。
「……」
その様子を見て、啓太の顔が曇る。
「まったく…そんな無理して…俺、てっきり誰か別の人が運転してくるんだろうなって思ってたのに…」
夕方から夜にかけて家族に誕生日を祝ってもらっていた啓太。
八時前に携帯が鳴って期待に胸を弾ませ出るとやはり和希からで、もう自宅の前だというから慌てて荷物を抱えた。
学園まで送ってくれることへお礼を言おうとする母を 「逆に気を遣わせるから」 と何とか言い含めて飛び出した啓太は、いかにもな黒塗りの車じゃなかったことにとりあえず胸を撫で下ろした。
…それでも高そうな車には変わりないのだが。
玄関先で見送る家族に手を振り、少し離れた位置で止まっている車に近づいてギョッとする。
運転席に和希がいた。しかも一人きり。
別に初めて見たと言う訳ではないのだが…予想と違って慌てる。
万が一家族が近づいてきたらどう言い訳しようと啓太が立ち尽くす中、助手席の窓が静かに下りた。
『お待たせ、啓太』
『……』
『どーした? 荷物後ろに乗せるか? 多いなら俺も降りて手伝うけど…』
『!』
穏やかな口調でとんでもないことを言われたような気がする。
我に返り慌しく後部座席のドアを開け、啓太は荷物を奥のほうへと載せ始めた。
『いっ、いいっ! いいからお前はそこから動くな!』
あくまでも小声で返事をする啓太に和希は首を傾げる。
『俺、とりあえずこっちに乗るからっ!』
荷物を積み終わった啓太はそのまま後部座席に乗り込んだ。
『え?』
ちょっと不服そうな和希の視線と玄関先から見ているであろう家族の視線を痛いほど感じる。
ハラハラしながら背後の家族を気にしつつ啓太は和希に懇願した。
『後から前に移るから早く車出して!』
『……了解』
渋々頷く和希。その表情に一瞬笑みが浮かんだことに啓太は気づかなかった。
エンジンがかかり、啓太があからさまにホッとする。
それからすぐに後部座席の窓を開け、少しだけ顔を出し啓太は見送る家族に手を振った。
『出すぞ?』
気遣うようにかけられた和希の声。
『……うん』
車がゆるやかに滑り出した。
少しずつ小さくなる家族の姿に離れがたく感じないわけじゃない。
でも学園での生活も楽しくて、どちらも大切だから。
やがて車が角を曲がり、啓太は顔を引き窓を閉めた。
『…ごめんな、和希。せっかく来てくれたのに…バタバタさせて』
窓を閉めた啓太はすぐに運転している和希に謝罪した。
『気にしてないよ。それより啓太…』
『…ん、何?』
聞き返すのと同時に車が止まる。見ると和希が笑顔で助手席を示した。
『もういいだろ?』
『まったくもう…』
呆れたように和希を見ながら啓太も笑顔になる。
後部座席から助手席に移り、シートベルトに手をかけるより早く抱き寄せられた。
重なる唇。
『ん…っ』
予想してなかったわけじゃないし心のどこかで期待していたから啓太も素直に身を任せていた。
『はっ、ふ…あっ』
でも段々深くなる口付けに警鐘が鳴り出す。
『はぁ…っ。んんっ!?』
息を継ぐ間もない。離れてもすぐまた口付けられる。
さすがに苦しくなって、啓太はドンドンと胸を叩いた。
必死に顔を背けようとする。
『かっ、和希っ! ちょっと…待てって!』
密着する身体から熱が伝わってくる。
頬に和希の手が触れたままだ。
『久しぶりなんだから…もうちょっといいだろ、な?』
『だっ、ダメだって…』
これ以上流されると非常に危険な気がしたので、啓太はストップをかけた。
大体、ここは車の中なのだし…いくら夜で人気がないとはいえいつ誰が通るとも限らない。
『俺やっぱり後ろに…』
『……わかったよ』
ふうと嘆息してから名残惜しそうに和希が離れる。
そこで啓太はあっと声をあげて、和希の服を掴みぐいと引き寄せた。
『啓太?』
『俺、一番大事なこと言い忘れてた――おかえり、和希』
ふんわり微笑む啓太に和希も嬉しそうに微笑み返した。
『――ただいま、啓太』
頬にちゅっと口付ける。
瞳をじっと見返して二人はもう一度だけ、唇を重ねたのだった。
そして今に到る。
「だって啓太と早く二人きりになりたかったんだよ」
はっきりと恥ずかしいことを言われて啓太は頬を染めた。
「……でも、さ」
「大体そのまま行ったら啓太だって余計に気を遣うだろ? ……石塚や他の人間もいる中でキスしたらお前めちゃくちゃ怒りそうだし…」
「そっ、そんなの当たり前だろ!」
啓太の反応に苦笑しつつ和希が続ける。
「まぁこんな風に俺が自分で運転して迎えに行ったら、それはそれできっと…啓太は困るだろうなとは思ったんだけどね」
「……え?」
ぽかんとする啓太の頬に和希が掠めるようなキスをした。
同時に信号が青に変わりアクセルを踏み込む。
「かっ、和希…っ!」
街中なのにと啓太が慌てて頬を押さえて、辺りを見回した。
「さっきの啓太の困った顔がまた可愛かったな~」
「…………和希」
家の前で家族の目を気にして冷や汗ものだったのにと、啓太は頬に手を当てたまま恨めしそうに睨んだ。
「ごめんごめん。…そんなに睨むなよ。まぁ啓太は怒ってても可愛いけど…」
「か~ず~き~」
運転中だから手が出せないのが悔しい。
和希の運転技術の一端をゲーセンで見ているので、ヘタに手を出すと命にかかわる。
さすがにゲームと現実は異なるだろうが万が一だ。…降りたら覚えてろよと啓太は心に誓った。
深々と嘆息して啓太は話題を戻す。
「まだ学園までかなり距離あるけど…和希、ホントに平気か?」
とは言いつつも運転を変わることは出来ないので、それがまた心苦しいのだが。
「学園? 今日は学園には戻らないよ」
平然と返された和希の言葉に啓太は驚いて聞き返す。
「えっ!? このまま寮に帰るんじゃないのか?」
「だって寮に帰ったら絶対誰かに邪魔されるだろ?」
「邪魔って…そんなこと」
「ある。成瀬さんあたりに出くわしたら面倒だ」
「大丈夫だよ…成瀬さんには5日の夜に帰るって伝えてあるから」
「伝えてあるって……予定聞かれたのか?」
「えっ、うん…」
啓太は休み前の成瀬とのやり取りを和希に説明した。
すると和希の表情が不機嫌そうに変わる。
「まったく油断も隙もない…。寮へもギリギリに帰ろう」
「和希……」
そんなに意識しなくてもとやや呆れてしまう啓太であった。
6.
程無くして、ものすごく高級そうなマンションに到着した。
もう何から何まで豪華なのでぽかんと口を開けるしかない。
しばし呆然としていた啓太は和希に促されるまま物珍しそうに辺りを見回しながらついて行く。
「和希…ここは?」
「今は寮で寝泊りしてるからあんまり使ってないんだけど…一応、俺の部屋の一つ」
「ふぅん」
「ホテルの方が楽かなーとも思ったんだけどさ…」
「え!?」
わかりやすすぎる啓太の反応に和希はクスッと笑った。
「啓太余計に緊張しそうだし…二人きりって感じが半減するから今回はこっちにしてみたんだ」
その言葉を聞いて啓太は安堵する。
自分の誕生日を祝ってもらえるのは嬉しいが、あまりに豪勢なのは恐縮してしまう。
それに和希さえ側にいてくれればそれだけで嬉しいから。
(うわ、俺なに恥ずかしいこと考えて…)
自分の考えに気恥ずかしくなって体が熱くなるのを感じた。
「啓太?」
「なっ、なにっ?」
「どーした?」
「なっ、何でもないっ!」
「? ならいいけど…荷物適当に置いてくつろいでて。俺、飲み物とか用意するから…」
「じゃあ俺も手伝う」
慌てて持ってきた荷物をソファの横に置き、和希の後に続こうとしたのだが。
「いいよ。啓太は今日は主賓なんだからな」
「え、でも…」
「いいから、夜景でも眺めてろよ」
「……うん。わかった」
和希がダイニングで何やら準備してる間に、啓太は広い室内をぐるりと見回しながら窓に近づいた。
「わぁ!」
啓太の口から自然と感嘆の声があがる。
闇の中を彩る光の数々、眼下に星が煌めくような錯覚。
窓の向こうに広がる夜景は本当に綺麗で。
そのまま吸い込まれてしまいそうだ。
見惚れてしばらく窓にピタリと張り付いていた啓太だったが、一度目を閉じ身体を反転し窓に寄りかかると再度広い室内を見渡した。
(やっぱり……和希の部屋だな)
先程話したとおり最近は寮の部屋で寝泊りしているのだから生活感はあまりしない。
だだっ広い、それこそ啓太の家より広い室内には生活できる必要最小限のものしか置かれていないように思える。
あとは仕事用に数台のパソコンや難しそうな本ばかりが並んだ棚があるばかりで。
一見すると淋しい。
それでも。
(……ホッとする)
段々慣れて落ち着いてくるのは、和希の空気を感じる事が出来るからかもしれない。
「啓太?」
グラスを手にした和希が姿を現す。
「あ、そうだった!」
そこで啓太はテーブルの上に置きっ放しにしていたあるものの存在を思い出した。
「?」
「和希、これ冷蔵庫に入れたいんだけど……いい?」
「なに? そう言えば…さっきから気になってたんだよな。啓太の荷物予想外に多いから…」
夏物の衣料等は和希の車に置かせてもらったままだ。
だが啓太は大きな紙袋を一つ持ち込んでいた。
「えっと…実はこれケーキなんだ。あとは夕飯の残りの…からあげとか」
「ケーキって…もしかして前に話してた?」
「うん。朝から朋子が作ってたケーキ。出来上がり心配だったけど食べたら結構美味かったから」
「へぇ」
「和希にもお裾分け…っていうほどの量じゃないんだけどな」
「そっか…それは楽しみだな」
照れ笑いする啓太から大事そうに受け取り冷蔵庫に入れる。
「和希、ご飯食べた?」
「…いや」
「よかった~…ホントに大したものじゃないんだけどさ、後でお腹空いたら食べようかと思って母さんに頼んで取り分けてもらったんだ。和希のことだからきっと食べてないだろーなぁって気がしたし…」
啓太の言葉に和希が嬉しそうに微笑んだ。
「気を遣わせちゃったな」
そうして肩に手を置き、啓太の頬に軽くキスをする。
「わ!」
そのとき。
――ピンポーン。
来訪を告げるチャイムが鳴った。
「……お客さん?」
「あぁあれは……」
首を傾げる啓太に和希は苦笑しながら玄関に向かう。
短いやり取りの後に戻ってきた和希の手には沢山の箱。
漂うのは食欲をそそる香り。
「か、和希、これってもしかして……?」
ピザやらチキンやらパスタやら、パーティ用の食べ物がテーブルに置かれた。
頬を指で掻きながら和希は困ったように笑う。
「実は啓太の家に着く前に注文しておいたんだ。俺も食べる時間なかったし、食材買う時間もなかったからな。とりあえずは今夜と明日の朝までの分あればいいかと思って…」
テーブルに並ぶ食べ物は結構な量だ。
「……啓太、まだ食べられそうか?」
「え、うん」
ちょっと引いてる和希とは対照的に啓太は余裕で頷いた。
「ならいいけど……実は啓太には更にもう一つあるんだ」
「?」
「朋子ちゃんの手作りケーキの話聞いて買うの悩んだんだけど、まぁ啓太甘いもの好きだしいいか…と思って」
「……ケーキ?」
「当たり」
箱を開けると苺をメインに作られたバースディ用のホールのケーキが出てきた。
「わぁぁ!」
凝った綺麗なデコレーション、きっと有名なお店のケーキなんだろうなと啓太は即座に思った。
「苺…美味しそう。でもすごく綺麗だから食べるの何だか勿体無いなぁ」
「……本当に食べられそうか?」
「え、勿論! 和希がせっかく用意してくれたものだし、何よりすっごく美味そう」
「……それならいいけど……無理はするなよ?」
この細い身体の一体どこにそんなに入るのか、和希は安堵しつつもそう思わずにはいられなかったのだった。
7.
「啓太」
日付が変わるまであと三十分というところで、和希が口を開いた。
「ん、何?」
「何が欲しい?」
「え……?」
突然の問いに、啓太は何と返していいかわからない。
きょとんとして向かいに座る和希を見るが、すぐに俯いてしまった。
「……」
和希の、自分を見つめる眼差しがあまりに優しくて。
深い愛情を感じるから。
「俺、啓太にはあげたいものが沢山あるんだ。お前が喜んでくれるなら何だってしてやりたい」
「和希……」
顔をあげると、そこには和希の笑顔があった。
偽りのない言葉。
全ての想いが真っ直ぐ自分に向かってくるのがわかる。
(……どうしよう)
恋しくてたまらない。
――同時に。
眼差しに、声質に、空気に。
懐かしさを感じた。
(あぁ……これは)
啓太はすぐに自分の中に湧き起こった懐かしさの正体に気づく。
(カズ兄、だ)
吸い込まれるように見つめていた。
目の前にいるのはクラスメートで、幼なじみのお兄ちゃんで、理事長で。
それから――。
かけがえのない大切な恋人。
「啓太?」
「なっ、なにっ?」
突然呼ばれて驚く。
自分の心の声が聞こえてしまったのかと恥ずかしくなった。
そんな啓太の反応に和希がくすっと笑う。
「もしかして……俺に見惚れた?」
「なっ、ばっ! ばか、お前何言ってるんだよ!」
図星なのがまた悔しい。
でも認めるのはもっと悔しい。
「そんなこと…っ」
真っ赤になって否定する啓太に、和希は「それは残念」とくすくす笑う。
お見通しだよと言わんばかりに。
「……」
こういうところがまた自分よりも余裕があって、大人で、差を感じてしまう。
勿論嫌ではないけれど。
「啓太」
「……なんだよ」
まあ多少拗ねたような口調になってしまうのは大目に見てもらいたい。
「そっちに行ってもいいか?」
「えっ、う…うん」
ドキドキと少しずつ鼓動が早くなる。
「啓太」
さっきよりもずっと声が近い。
ソファが軋む音まで意識してしまう。
「何が欲しい?」
肩に、腕に、肌に触れる体温。
壊れるんじゃないかっていうくらいに心臓が激しく動く。
それでも離れたくなくて、啓太は和希にそっと寄りかかった。
「俺…和希とこんな風に過ごせるだけで嬉しいから…他には何もいらないよ」
「それは困るなぁ」
「……困るなよ」
本心だから仕方ないだろと上目遣いで睨む。
でも和希には全然効果がなくて、嬉しそうに笑われただけだ。
不意に手をとられた。
「?」
――左手、を。
「なんだよ?」
不思議そうに首を傾げる啓太に、和希が微笑んだ。
「ん、実は今回…指輪も考えたんだけど…」
「ゆ、指輪!?」
「勿論特別な意味をこめて」
「特別な…意味?」
まだ把握できてない啓太の耳に和希は囁く。
トクベツの説明。
「え…っ」
聞き返すよりも早く、和希が薬指に口付けを落とした。
愛おしむように。
「!」
啓太の頬が瞬時に真っ赤に染まる。それは今までの比でない。
身動き一つ取れなくなった。
「和希……」
「でも…不運の指輪の件があったばかりだから…啓太嫌がるかなぁと思って用意だけしてる」
「してるのか!?」
「勿論。啓太の心の準備が出来たら贈るから」
「……和希」
嬉しいのだが、どう応えていいかわからない。
戸惑い揺れる瞳に、和希が苦笑する。
そっと左手が解放されて啓太はほっと一息ついた。
「指輪以外でも啓太に贈りたいものはまだまだあるよ?」
「う……。そ、それは困る」
「じゃあ言って?」
「…………」
和希の手が啓太の頬を包んだ。
目が逸らせない。
「……和希」
深呼吸を一つ。
「……和希が欲しい」
啓太の言葉に和希が優しく微笑む。
「俺はもうとっくに啓太のものだよ?」
「……っ、そっ、それはそう、かも…しれないけど…さ」
「啓太、もしかして…」
まともに見返すのが恥ずかしくなって目を逸らすと、啓太の耳元で和希が尋ねた。
「誘ってる?」
「ちっ、違うっ」
ぶんぶんと慌てて首を横に振ると、和希は楽しそうに笑った。
「……」
翻弄されてると思う。
自分ばかり不公平だと思う。
でも――。
どうしようもなく好きだから仕方ない。
啓太は和希のシャツをぎゅっと掴み、胸に頬をすり寄せた。
「……啓太?」
「俺、家族や友達に祝ってもらって嬉しかったよ。でも実は…他の誰より和希におめでとうって言ってもらいたかったんだ」
「……」
背中に両腕が回される。
優しく先を促されて、啓太は続けた。
「和希がすごく忙しいのわかってるんだけど…やっぱり一緒にいたくて。だから誕生日にこうして側にいてもらえるだけで本当に…本当に嬉しいから…もうそれだけで充分なんだ」
「啓太……」
「いつも無理ばっかりさせて…ごめん、和希」
「それは啓太のせいじゃないよ。俺が俺のためにしてることなんだからさ」
何のためらいもなく、そう言ってくれる和希の言葉が嬉しくて視界が一瞬揺らいだ。
(………ありがとう、和希)
あやすように背中を撫でてくれる。
髪にキスをしたのがわかった。
和希にしがみついたまま、啓太はおずおずと口を開く。
「あのさ…もし和希がどうしてもって言うなら…俺、約束が欲しい」
「約束?」
うんと頷き、啓太は顔を上げて和希の目を見つめた。
「これからも…ずーっと俺の側にいて?」
「それはもうとっくに約束してるだろ?」
「うん、わかってる。でも俺はまだ子供で…不安になることもいっぱいあるから…何度でも約束してもらえたら嬉しいし安心する」
「そうか…そういうことなら」
抱き寄せていた身体を一度離して、和希が啓太に目線を合わせる。
深く、ひたむきな眼差し。
「俺はずっと啓太の側にいるよ」
「……うん」
頬に手を添えられ、顔が近づく。
啓太はそっと目を閉じた。
触れた唇から伝わる想い。
遠い日から交わされ続ける優しい約束。
「愛してるよ、啓太」
「ん……俺も」
何度も繰り返される甘い口付けに心も身体も溶けてしまいそうだ。
やがて。
「かっ、和希…っ、ちょっと待ってっ」
段々口付けが深くなり、口内が貪られていく。
「んん…っ」
迫りくる予感に怯む舌が呆気なく捕らわれ吸い上げられた。
「んうっ…んっ」
目元がじわりと濡れていく。
「はぁ……」
ようやく口付けを解かれたときにはもう身体に力が入らなくなっていた。
そんな啓太の様子を楽しそうに見つめながら、和希がその身体を抱き上げる。
「わぁっ」
慌てる啓太に和希が釘を刺した。
「落ちるから暴れるなよ」
「う」
恨めしそうに見つめる啓太に構わず移動する。
どこに向かってるかなんて聞かなくてもわかってしまった。
「こんなことしなくても、俺自分で歩ける」
真っ赤になって顔を背ける啓太に和希が意地悪く聞き返す。
「本当に?」
「~~っ」
実はちょっと無理かもしれないと内心思っていたので言葉に詰まってしまった。
開けられたドアの向こうにはやっぱりベッドがあって。
「せっかく啓太が俺が欲しいって言ってくれて、しかもあんなに可愛いことばかり言って散々煽ってくれたんだから…これからたっぷりサービスしないとな」
「そっ、そういう意味で言ったんじゃ…!」
やたら大きいベッドに下ろされ、啓太は慌てた。
だが逃げられないように両手を押さえれてしまい身動きが取れない。
「かっ、和希! まだ日付変わってないって! 俺の誕生日は五日だから!」
「大丈夫、十二時過ぎたらちゃんと教えてやるから」
「そういう問題じゃない!」
文句を言おうと口を開くがそれより早く和希の口でふさがれた。
再び、甘い甘いキスに翻弄される。
今度はもう途中で止まることはなかった。
快楽に溶けて朦朧とする意識の中。
遠くで優しく囁く声が聞こえた。
――誕生日おめでとう、啓太。
五日の朝。
「啓太、来月俺誕生日なんだけど…」
「知ってるよ。いくつになるのかは知らないけどな」
ベッドの中で、啓太は頬を少しだけ膨らませる。
和希はその視線を避けつつ頬を掻いてから言った。
「どうしても一つだけ欲しいものがあるんだ。…先にリクエストしていい?」
「え、なにっ?」
何をあげようか思案していたところだったので飛びつくように啓太は聞き返した。
和希はにっこりと笑顔で一言。
「啓太」
「え」
まさかと思って見つめるとこくんと頷かれた。
「啓太が欲しい」
「う…」
「イヤ?」
「……じゃないけど」
もぞもぞと動いて毛布を顔の前まであげる。
「じゃあいいよな?」
「……」
真っ赤になって啓太は小さく頷いた。
それを見た和希が破顔する。
「あぁ~今から待ち遠しいな」
恥ずかしくてまともに聞いていられなくなり、啓太は和希に背を向けた。
そこへ。
「わぁっ!」
無防備な背中に突然キスされて思わず仰け反る。
「か、和希いきなり何…!」
「まだ啓太の誕生祝いは始ったばかりだろ? これからもっと楽しいこと、しような?」
「……っ!」
ニッと笑みを浮かべて手を伸ばす和希の意図を察し、啓太は慌てた。
「もういっぱいしたからいいっ!」
「不安になんかならないようにたくさん俺をあげるからなv」
「ちょっ、こら! どこ触って…!」
制止もむなしくあっという間に仰向けにされる。
「和希、明日から授業あるんだぞ!」
「大丈夫、いくらなんでも明日の朝までには帰るから」
「あ、明日!? 今日中には帰らなきゃダメだろ?」
「…成瀬さんが待ってるのわかってて今日中に帰るわけないだろ」
「おっ、お前まだそのこと気にしてたのか!?」
驚き呆れて抗議しようとする啓太の口を和希がふさぐ。
五月五日は始まったばかり。
二人が翌朝学園に帰り着いて篠宮に説教を食らうのはまた別のお話。