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イ・ジ・ワ・ル ―丹羽編―

4.
 翌朝。
 カチャカチャとパソコンのキーボードを叩く音だけが部屋に響いていた。
「これでよし…と」
 とあるプログラムを入力し終えた和希は口端をわずかに持ち上げ、寮の部屋に持ち込んだノートパソコンの電源を落として静かに閉じた。
「ん……」
 ベッドからのかすかな声に振り向く。
 そこには健やかな寝息を立て、啓太が眠っていた。
 起こさぬように注意を払ってベッドに近づく。
 もっとも昨夜の激しく繰り返された行為のせいで、そう簡単には目覚めないだろうが。
(やっぱりちょっと…やりすぎたかな?)
 そぉっと柔らかな頬に触れた。
 あたたかい。
 笑みを浮かべ囁く。
「……ごめんな」
 丹羽への仕返しを決行するため、元々今日は啓太を休ませるつもりだったのだ。
 啓太は優しいから、すぐに同情して自分へ執り成そうとしてくるだろう。
(ま、俺も少しくらいは王様にも同情するけどね)
 啓太を利用する卑劣な手を使わせようとしたのは中嶋なのだから。
 だからと言って報復の手を緩める気は更々ない。
 自分にとっては啓太が全てだから。
 障害はどんな手段を使ってでも排除する。
 とは言え今回の企みは可愛らしいものだろう。
 丹羽一人が大変な目に遭うだけで。
(あーぁ、結局中嶋さんも楽しむんだろーな)
 中嶋の暇潰しに手を貸すと知りつつも、これから起こるであろう小さな騒動に気分が高揚する。
 その一部始終を啓太が見ることが出来ないのは幸なのか不幸なのか。
「ん……」
 ただ、今は。
 この安らかな眠りを守りたいから。
「おやすみ、啓太」
 額に一つキスを落とす。
 おそらく彼が目を覚ますのは夕方、よくて昼過ぎあたり。万が一それより早くに目覚めたとしてもベッドから出ることは難しいだろう。
 しばらくはその寝顔を飽くことなく見ていた。
 やがて登校時間が迫り、BL学園のジャケットに袖を通す。鞄を持ち、ドアに手をかけ、もう一度だけ啓太の眠るベッドを振り返った。
「…行ってきます」
 小声で告げて、静かにドアを閉め部屋を後にする。
 企みの開始まであと少しだ。

 始業開始まで、もう間もなくという頃に丹羽は登校していた。
 今日間違いなく何かが起きるとわかっている。
 問題はそれが何かということだ。
 不明なことほど不安なものはない。
 半ば自業自得の結果とは言え、やはり不本意だ。
(……遠藤の野郎、一体何をする気だ)
 心の中で問い掛けてみるものの、丹羽の中にはもうある予感が浮かんでいた。
 ただそれだけは絶対にあってほしくないと切望しているからこそ浮かぶ。
 和希は自分の弱点を知っている一人なのだ。
「あぁぁ! くそっ」
 無意識に悪態をつきながら正門を潜った。
 すれ違う生徒たちはイラついた丹羽にビクつく。
 教室に行く気にならず、学生会室へ足を向けた。
「ん?」
「…おや」
 朝から珍しい人物と遭遇した。
 七条だ。
 向こうも足を止める。
「おはようございます。丹羽会長」
「……あぁ」
「冴えない顔ですね」
「……まぁな。郁ちゃんは一緒じゃねぇのか?」
「郁なら会計室にいますよ。これから起きる騒動をとても楽しみに待っています」
「……七条、お前な」
 にっこりと穏やかに微笑む七条に丹羽はげんなりと肩を落とした。
 二人が心の底から楽しげなのがわかるから嫌だ。
「あぁそう言えば…」
「…何だよ」
「トノサマは可愛いですよね」
「なっ!」
 丹羽は引き攣る。
「なっ! なんでそこでいきなり海野のペットが出てくるんだ!」
 丹羽の声が上擦り、反射的に辺りを見回す。
「……はぁぁ」
 いないことに安堵し胸を撫で下ろした。
 目の前でクスクスと七条は笑っている。
「相変わらずですね」
「……うるせぇ」
「あんなに可愛いのにどうしてそんなに苦手なんでしょうか。僕には理解できませんね」
 本当に不思議とでも言わんばかりに首を傾げられた。
「あの化け物のどこがそんなに可愛いのか俺の方が聞きてぇーよっ」
 そう言い捨て、背を向ける。
「あぁ丹羽会長?」
「あんだよっ?」
 振り向くと、七条は相変わらずの笑顔だった。
「今日は頑張ってくださいね」
「…………あぁ」
 丹羽はただもう頷くしかなかった。
(やっぱアレなのか!? アレしかないのか!?)
 心の中でその名を呼べぬほどに、丹羽はその動物を恐れていた。
 着実に迫り来る恐怖。
(あぁ…いっそのことサボっちまおーか)
 しかし今日提出しなくてはいけないレポートが鞄の中にあり、しかも泣けなしの意地やプライドも残っている。
「あぁーっ、くそっ!」
 声に出しながら丹羽は学生会室へと再び歩き出した。


「……おーっす」
 部屋にはいつも通り、中嶋がいた。キーボードを打つ手を止め、かすかに顔を上げる。
「来たのか、丹羽」
 部屋の入口付近に見慣れぬダンボール箱が置いてあった。
「……なんだそりゃ?」
 指差しながら尋ねると、中嶋はふぅと嘆息してから短く告げた。
「……学生会用の備品だ。さっき業者から届けられた」
「ってコレ全部か? 備品ってコピー用紙や文房具がほとんどだろ? 何かいつもより多くねぇか?」
「……そうだな」
「ヒデ……一体何を注文したんだよ?」
 言いながら丹羽は手近な開封済みの箱を改めて開いた。
「……っ!」
 ソレを見た瞬間、丹羽は息を飲み飛びずさった。
 見間違いだと信じたい。
「お…おいヒデ……コレ」
「見たならわかるだろう? うちの”備品”だ」
「な……っ」
 丹羽は言葉を失う。
 中嶋が椅子から立ち上がり呆然と立ち尽くしている丹羽の横を通り過ぎ、箱を開いた。
「わーーっ!! 止めろ、ヒデ! ソレを出すなーっ!!」
「……落ち着け、丹羽」
「これが落ち着いていられるかーーっ!!」
「少しは慣れろ。コレは”備品”だから日々使っていくものなんだぞ」
「返品しろよ、んなモン!!」
 段ボール箱から距離を取り叫ぶ。
「まぁ確かに”備品”としてはどうかと思うがな……それにしても……文房具全部ネコ柄とは……」
「口にだすなーーっ!」
「やかましい。ほら、見てみろ哲ちゃん、普通の実写のネコだけじゃないぞ? キ○ィにト○に…あぁゲームのキャラまでいるな。よくここまで集めたものだ。アイツ自らそこまでやるとは思えないから…業者任せか」
「うがぁぁぁぁっ!!」
 暴れる丹羽を放置したまま中嶋は淡々と続けた。
「……手の込んだことを」
 嫌がらせのレベルにしてはまだ序の口だろうが、さすがに権力があると想像のつかないことをする。
「次はなんだろうな、哲ちゃん?」
「返品だ返品ーっ!」
 だが当然叫ぶ丹羽には聞こえていない。
 その時。

 コンコン――。

「取り込み中失礼する」
 開いたドアの隙間から、西園寺の流麗な顔が覗いていた。
「どうした、西園寺。こんな時間に会計部長自らわざわざこんな場所にお出ましとは珍しいな」
「ふふ……なかなか面白いことになっているようだな。この段ボールの山はなんだ?」
「お優しい理事長サマから丹羽へのプレゼントだ」
「ほう?」
 手近にあった箱の中を覗いて、西園寺は笑った。
「成程……面白い」
「それで?」
「ん?」
「何の用だ?」
「あぁ…会計部の方にあるメールが来たんだ」
「メール?」
「理事長から私宛にな」
 何かを含んだ西園寺の視線を受け、中嶋は先を促した。
「……内容は?」
「この時間にここへ来れば面白いものが見られるだろうと」
「この時間にここで? まさかこの丹羽の有様のことではあるまい…?」
「さぁ? まぁ私にはこれだけでも充分な見世物だがな…奴は期待を裏切らないだろう」
 中嶋と西園寺は壁の時計を見上げる。
 時刻は九時前。
 考える仕種をして、西園寺がおもむろに口を開いた。
「そうそう…確かメールには『前回君はその様子を見ることが出来なかったから、今回は目の前でじっくり楽しんでほしい』と追伸が…」
「前回……?」
 そう言った瞬間。

『ニャーンニャーンニャーンニャーン…』

「ひぃぃぃぃっ!!!」
「!?」
「……っ」

『ニャーンニャーンニャーンニャーン♪』

 猫の鳴き声…この学園の者なら知らぬ者はない、トノサマの、可愛らしいとは言い難い鳴き声が、チャイムとして高らかに校内に響き渡ったのだった。
「うわぁぁぁっ!!」
 叫び声を上げる丹羽。
「……成程な」
 中嶋はかけていた眼鏡を上げる。
「これは…」
「以前、丹羽がお前を殴ったときに七条が作ったチャイムらしい。遠藤の奴…まだデータを残していたのか…」
「ふぅん…だから昨日奴は臣の所に来たのか」
「何だ、お前は知らなかったのか、西園寺?」
「あぁ…臣には『ナイショです。明日になれば郁にもわかりますよ』と笑われただけだ」
 その時のことを思いだしたのか、一瞬不機嫌そうに顔をしかめたが、丹羽の様子を間近に見て破顔する。
「しかし…確かにこれは見なければ損だな。遠藤には礼の一つでも言っておくか」
 丹羽には何も聞こえていないようだ。
 ただネコチャイムを相殺するために耳を塞ぎ大声を張り上げ続けている。
「これが始業のたびに鳴るのかと思うとここへ来るのも楽しいものだな」
「そうか? 俺にはやかましいだけだがな」
 チャイムは余韻を残して終わった。
「おい、丹羽…終わったぞ……丹羽っ!」
 耳を塞ぎ叫び続ける丹羽に近づき、中嶋はその肩を強く揺さぶった。
「はっ、ヒデ!? ダメだ手をハズすな、あの化け物の声が…っ」
「チャイムは鳴り終わった。この授業の終わりまでは鳴らない」
「お、終わったのか?」
 そっと耳から手を離す丹羽を見て、西園寺は高らかに笑った。
「はっ、郁ちゃん!? いつの間にここへっ?」
 今になってやっと西園寺の様子に気付いた丹羽は顔を引き攣らせる。
「ふふ…私はさっきからずっとここにいたぞ、丹羽?」
「……ず、ずっと?」
 声まで上擦る。
「ずっと、だ」
 西園寺は笑顔で答えた。今だかつてないほどの麗しい笑み。
 これが違う場面ならば、思わず見入ったあげくに調子に乗っていつも通りからかうのだが、さすがの丹羽も口をぱくぱくさせたまま何も言えない。
「今日は朝から愉快なものが見れた」
「……っ!?」
 丹羽はその言葉にぴきんと固まる。
 中嶋はこっそり溜息をついた。
「か、郁ちゃ…」
「あのチャイムが鳴り続ける間ならここへ来ても楽しそうだな。しばらく書類は私自ら持ってこよう。……ではな」
 軽く手を振って西園寺は笑みを浮かべたまま学生会室を後にした。
 残された丹羽の両肩が悲しいくらいに下がっている。
「……」
「……見られた」
「ん?」
「よりにもよって……郁ちゃんに……見られた」
 そう呟くと丹羽の巨体がガクッとその場にしゃがみ込む。
 よほどショックだったらしい。
 中嶋は溜息をついた。
「デカい図体で情けない……」
「……」
「お前がいい加減アレに慣れればいいだけの話だ。いっそ今回のことを利用して克服してみたらどうだ?」
「出来るかっ!」
 即答だった。
「……哲ちゃん」
「あぁーっもう! こんな時に仕事なんかしてられっかよ!」
 そう叫ぶと勢いよく立ち上がった。
「いつもサボってる奴が何を今更……」
「うるせーっ!! こんな化け物の備品に囲まれて仕事が出来るわけないだろっ」
「……校内も似たようなものだがな」
「あぁん? 何か言ったかヒデ?」
「……いや」
「じゃあ、俺は先に教室に行くぜ!」
「……わかった。放課後は出てこいよ。今日中に申請しないといけない書類が……」
 言い終わる前に丹羽は部屋を飛び出す。
 中嶋はやれやれと肩を竦めた。
「今はどこも猫だらけなんだがな……哲ちゃん」
 口端が上がる。
 椅子に座り、パソコンに向かう。キーボードを打つ手が先ほどより早い。
(早く仕事を片付けておくか)
 中嶋はあえてあれ以上語らなかったが、今や校内はある意味大変なことになっていたのだ。
(さて、俺のフォローなしでどれだけもつかな、哲ちゃん?)


5.
 教室に向かうために丹羽は歩いていた。
 悪寒がする。
 階段を上り、踊り場に差し掛かり固まった。
「ひ……っ」
 そこには一枚の高価な絵画が飾ってあった。
 写実的な猫の絵画。
「……っ!?」
 昨日まではこんなものはなかったのに。
(……なんでだ)
 背後から下級生が二人、話しながら階段を上ってくる。
 丹羽同様目敏く絵画に気付く、というかデカすぎて誰でも目につくのだが。
「うわぁ~! すごいリアルな猫だなぁ」
「寄贈品だってさ。でも理事長も太っ腹だよな。全部無償でって噂だぜ」
「えー?」
(!?)
 丹羽はひそかに二人の会話に耳を傾けた。
「正面玄関のサーベルタイガーの剥製の前で二年生が話してたの俺聞いたんだけどさ~…うちの生徒に日常から芸術に親しんでもらおうってことで、理事長が鈴菱所有の美術品を寄贈しようって言い出したんだってさ」
(正面玄関にサーベルタイガーの剥製だと!?)
 今朝丹羽は正面玄関を通らず渡り廊下を突っ切って来た。だから実物をまだ見ていない。
(当分あっちは通れねぇじゃねぇかよ……)
「しっかしさー…こーゆー美術品って何百万は軽くするんだろ? 自分の学園だからってすごいなぁ」
「美術品ってここだけじゃないんだよな? 俺、休み時間に学園内見て回ろうっと」
「あぁ、それいいな!」
 二人は楽しそうに階段を上って行った。
 丹羽の肩が震えている。
(……あんの)
 拳を握り締め力の限り叫んだ。
「クソ理事長ーーっ!」
 階段ホールでの丹羽の雄叫びは周辺にきぃぃんと響き渡った。
 階段をバタバタと駆け上がってくる足音。
「丹羽、今叫んだのはお前か!」
「げっ、篠宮!」
 丹羽の顔が引き攣る。
「校内で何を騒いでいる。しかも今お前は…!」
「あっ、すまねぇ篠宮! 俺、ちょっと…」
「待て、丹羽!」
 さすがに弓道部の部長、篠宮。腕力は強かった。
 襟首を掴まれ、丹羽は篠宮に説教を喰らう。
「俺は常日頃から不思議に思っていたのだが、あんな素晴らしい方に対してお前はどうして暴言を吐くんだ」
「……いやこれには止むに止まれぬ事情があってだな」
 篠宮の目がまともに見れない。
(理事長が素晴らしいって…あいつの正体知らねぇくせに……)
 心の中で思わず毒づく。
 そのまま寮でもないのに10分は説教を喰らった丹羽であった。
(畜生、クソ理事長め)
 心の中で再度叫んだ。


「あらら、王様、災難だなー」
 爽やかに微笑して他人事のように呟く和希。
 実はちょうど階下で丹羽の叫びを聞いていた。篠宮に説教を喰らっているのまで丸聞こえだ。
「もっと楽しんでもらわないと、ね」
 にやりと笑って自分の教室へと戻る。
 足取りは軽やかだった。

***

 にゃーん。
(ん……?)
 にゃあん。
(ね、こ……?)
 遠くで愛らしい猫の鳴き声が聞こえる。
 啓太は重い瞼をそっと開けた。
「ん……!」
 眩しい光りにぎゅっと目を閉じる。
「おはよー、啓太」
「かず、き?」
 目の前には制服姿の和希がいた。
 細長く綺麗な指が啓太の頬を撫でた。
 ひんやりと冷たい。
「……んっ」
 くすぐったそうに声を漏らし、啓太はその指に自らの手を重ねる。
 目覚めたばかりの身体はまだ温かく、和希の指にもゆるやかにその熱が伝わっていく。
「…おはよ、和希」
「よく、眠れた?」
 尋ねる声は優しい。
 声をかけるのと同時に額にキスを落とした。
「……うん」
 啓太はまだ完全には覚醒しきっていないらしい。普段なら照れてしまうところだが、やはりされるがままだ。
 和希は柔らかなくせっ毛を何度も撫でながら微笑む。
「……ねこ」
「ん?」
「和希…ねこの声が聞こえないか?」
 ベッドから上体を起こして、啓太がきょろきょろと辺りを見回す。
「どうしたんだ、急に?」
「目が覚める前に…猫の鳴き声が聞こえたような気がして…夢、かな?」
「…そう、かもな」
 にっこりと笑顔で和希が答える。
「ところで啓太、お腹空いてないか?」
「ん……お腹?」
「昨日は夕飯食べ損ねただろ? それに…」
 言いながら和希が壁を見る。つられて啓太もそちらを見る。
「え……?」
 壁の時計は三時を指していた。
「えぇーーっ!!」
 一気に覚醒する。
 驚きは叫びになった。
「もう三時っ!? 嘘っ」
「ぐっすり寝てたな~」
「……授業どうしよう。全滅だ」
 肩を落とし俯く啓太の頭に、和希がノートを乗せる。
「…和希?」
「はい、今日の分のノートだよ。ちなみに午後は自習だったから大丈夫。俺も抜け出して会議に行ったしね」
 にっこりと笑う和希からノートを受け取り両手で握りしめた。
「内容もそんなに進まなかったよ。生物なんかまた海野先生が脱線したし…心配なら後で教えてやるから」
 そう言うと、和希は啓太の頭をよしよしと愛おしそうに撫でる。
「……」
 また子供扱いして、と啓太は思ったがノートは正直有り難いので素直に受け取ることにした。
「ありがと、和希」
「どういたしまして」
 にこーっと笑いながら近づき、啓太の頬っぺたにちゅっと軽くキスをする。
「かっ、和希っ!?」
「ん?」
 うろたえる啓太とは対照的に和希は至って普通だ。
(俺ってやっぱ子供だ)
 顔を覗き込まれてしまうと顔が熱くなって言葉に詰まる。
「~~っ」
 啓太の気持ちはお見通しだよと言うかのように、和希が不敵に笑った。
(うぅ…)
 悔しいなと思う。
 自分ばかりドキドキさせられて。
(でも…まぁ、いっか)
 手を伸ばす。
 啓太の手が和希の制服のジャケットを掴んだ。
「啓太…?」
 ぐいっと引き寄せて、和希の頬にかすめるようにキスをする。
「……!」
 ほんのわずかだが目を見開く和希が見えた。
(あ、びっくりしてる)
 珍しいと内心思いながら啓太は必死に照れを堪えつつ、何とか笑う。
「仕返し……とノートのお礼」
 ニッと笑う啓太に呆気に取られた和希だったが、すぐに平静を取り戻して啓太の腰に腕を回した。
「わっ、なっ、何してんだよ、和希!」
 途端に慌てる啓太を抱き締める。
「啓太~嬉しいけど、どうせなら頬じゃなくて口にしてくれよ」
「かっ、和希だって頬にしただろっ?」
「じゃあ俺が口にしたらしてくれるんだ?」
「な…っ、しっ、しないっ!」
 言葉巧みな和希に引っ掛からないようにと自分自身に言い聞かせつつ、啓太は和希の腕の中から抜け出そうとするが、抜けだすどころかますます身体が密着していた。
「和希っ、おっ、俺お腹空いたから離せって!」
 もはや慌てすぎて自分でも何を言ってるのかよくわからない。
「啓太の身体って寝起きだからあったかいなー」
「わわっ」
 和希は啓太の首筋から鎖骨にかけて頬を擦り寄せ、唇を滑らせてくる。抱く腕は緩まない。
「か、和…希っ、ダメだってば!」
「啓太が可愛いことするからだろ? 今だってそんな甘い声出してさ」
「……っ!」
 わざと、耳元で囁く。
 耳朶を震わせるように。
 二人きりの時だけに出す特別な声で。
「……和希の方が…ズルいよ…」
 確信犯だ。
 胸を押し返し抗うことさえ出来なくなる。
「……そうかな?」
 和希はクスと笑い、ぎゅうっと全身で包み込むように抱き締めた。
「……そう、だよ」
 ここは世界で一番安らげる場所。
 ずっと昔から約束された場所。
「……んっ」
 優しいキスが額や頬、瞼の上に降り注ぐ。
(……あれ?)
 和希のキスを甘んじて受けながら啓太は不思議な気持ちで見つめてしまう。
 さっきはあんなに露骨に仕掛けて来たくせに、今は啓太の敏感な場所には一切触れてこない。
 視線を感じた和希が苦笑する。
 くすっと笑いながら顔を覗き込んだ。
「……物足りない?」
「……っ」
 啓太は真っ赤になって、思わず両手で和希の胸を叩く。
「痛…っ」
「和希が馬鹿なこと言うからだろっ!」
「あぁ…はいはい、ごめんごめんっ」
 啓太の髪を梳きながら、和希が宥めるように頬に再度唇を滑らせた。
「和…っ」
「大丈夫、もう今日はしないから」
「……」
 至近距離で微笑む和希にどきどきする。
「確かに昨夜やりすぎたからな…啓太が可愛いからぐらつきそうだけど、これ以上は我慢するよ」
「かっ、可愛いって…なんだよもう…」
 腕の中で憮然とする啓太の額に自分のを押し当て目線を合わした。
「好きだよ……啓太」
「~~っ!」
 やはり確信犯だ。
 悔しいがここまで臆面もなく口にされたら何も言えない。
 くすくすと笑いながら和希が離れた。
「さ、じゃあご飯食べに行こうか? お腹空いただろ?」
「んー…でも、食堂…こんな時間に行って平気かな?」
「ん? 違うよ、外に食べに行くんだけど?」
「へ?」
 きょとんとする啓太に苦笑しながら続ける。
「今日は俺の奢りだよ。昨日から無理させたからお詫びに啓太の好きなもの食べに行こう」
「えっ、そんな…いいよっ!」
 慌てて首を振る啓太。相変わらず謙虚だなと思いつつ、啓太が断れないようにするべく近づく。
「啓太は…俺とデートするの…嫌?」
 耳元でわざと息を吹き込みながら甘い声で囁く。
「……っ」
 ちょっと淋しそうな声音で問えば、もう手の中。
「いっ、嫌じゃない…嫌じゃない…けど…」
 真っ赤になって俯く啓太に満足して笑う。
「じゃあ、決まりな?」
「…………うん」
「よーし、着替え手伝ってやるよ」
「えっ、いいよっ!」
 意気揚々とパジャマのボタンに手をかけた和希に慌ててしまう。
「だーいじょうぶ! 何もしないって言ったろ?」
「……でも…」
 いまいち信用出来ないのは日頃の行いのせいだろう。
「着替えくらい一人で出来るから…和希こそ着替えてこいよ。制服で行くわけじゃないんだろ?」
「そーだな……わかったよ」
 やや不満げな眼差しで渋々頷きながら和希が啓太から離れた。
「じゃあ俺着替えて来るから」
「うん」
 パタンとドアが閉められ和希が出て行った。
 それから15分程で戻ってくる。
 啓太が気になったのはなぜか強引に外泊届を書かされたこと。よくあることだし無断で外泊して篠宮に怒られるよりはマシだからこれはとりあえずよしとしようと思う。
 それからもう一つ……。
(今日は寮内が何だか慌ただしいな)
 作業服を来た業者らしき人間と何度もすれ違った。大きなダンボールを二人がかりで運んでいる。
 寮内に何かを大量に運び込んでいる様子に啓太は思わず首を傾げた。
「なぁ、和希……」
「どうした?」
「今日って何かあるのか?」
「……なんで?」
「何となく、さっきから人の出入り多いなって思ってたんだ…大きなダンボール箱持ち込んでるしさ……だから何かあるのかなーって思ったんだけど…」
「さぁ…そーいえば多いな」
 和希が知らないということは個人的なことなのだろうか。
「誰かが女王様みたいに部屋の内装変えるんじゃないか?」
「あぁそっか~そうだな。そーゆーこともあるんだっけ」
 すっかり忘れていた。
 ここはBL学園。
 普通では考えられないことが起きる場所なのだ。
「そんなことより啓太、早く行こうぜ?」
「うん」
 差し延べられた手に躊躇いなく重ねると、和希が嬉しそうに微笑む。
 ちょっと照れ臭いけど、和希が喜んでくれるならいいかと啓太も笑った。
「啓太、何食べたい?」
「んー…そうだなぁ」
 二人は和やかに寮を後にした。

 先程啓太に指摘された時に和希が内心ドキリとしたことは言うまでもない。それでも、まんまと寮から啓太を連れだした和希はこれから起こるであろう騒動を思うと心が踊る。
(直接見れないのは残念だけど…後で防犯カメラで録画したの見ればいいし)
 今はただ啓太と一緒にいられればそれだけで幸せだから。
「和希~さっきから何だかすっごく嬉しそうだけど…どうしたの?」
「ん? だって啓太と一緒だから」
「~~っ」
 真っ赤になる啓太の頬にそっと口づける。
「かっ! 和希!?」
「大丈夫、誰も見てないって」
「……まったくもう」
 赤い頬を押さえながら照れて俯く啓太。
 微笑しながら繋いだ手に力を込める。
「……っ」
 一瞬、啓太の動きが止まるが、無言のまま、きゅっと握り返して来た。
 自然と口元が緩む。
 あぁやっぱり啓太が好きだなと思った。
 誰よりも何よりも。
 だから。
(誰にも渡さないよ)
 まだまだ自分は力不足で自信なんてないけれど、一度手に入れたものを手放す気など更々ないから。
 そういう意味で今回の報復は無意味ではないだろう。
 手加減しないといけないと思いながらも、啓太が絡むとついつい歯止めが効かなくなりそうで恐い。
 だけどこんな自分を嫌いじゃないから。
 啓太と出会い手に入れた自分。
「和希…お前絶対何か隠してるだろ?」
「えっ? なんで?」
「さっきから笑い過ぎ」
「だから啓太と一緒にいると楽しいなって…」
「かーずーきー」
「あっ、えぇと…」
 無意識に指で頬をかく。
「ほら、行くぞ啓太!」
「わぁっ!?」
 半ば強引に手を引き、駆け出す。
「夜はまだまだ長いけどご飯食べそこねたら大変だからな~!」
「ちょっ、こら! 和希ってば! ごまかすなよ馬鹿ーっ」
 そして二人はこの後に起こる騒動を目撃する事なく甘い夜を過ごすのであった。


next...