あの公園を通るたび。
今も時々思い出す。
ベンチにぽつんと座って。
ずっと空を見ていた小さな老婆。
「大切な人を待っているの……」
一途な想いを抱えたまま一人。
彼女は逢えただろうか。
待ち人に逢えるだろうか。
いつか。
俺がその老婆と出会ったのは、蝉の声もやかましい夏の頃だった。
明日からは待望の夏休みだ。
だが高校受験を控えた俺には関係なかった。世間は夏休みでも受験生に休みなどない。
中途半端な数字が並ぶ通知表を無造作に鞄に詰め、終業式を終えた俺は普段よりも随分と早い時間に家へ帰ろうとしていた。
横断歩道を渡り、坂を下る。割と広い幅の二車線の道路をバスが濁った空気を残し通り過ぎていく。ぎらぎらと真上から輝く太陽が刺すように肌を焼いた。
「あっちー……」
今に始まったことではないがつい口にしてしまう。右手で仰いだが当然効き目はない。
坂の下、前方には五階建ての市営住宅が等間隔で建ち並んでいる。およそ十棟、そのうちの一つが俺の住まいだ。
「はぁー、明日は朝から塾かよ」
嘆息交じりの独り言を口にしながら歩く。
口にした後すぐに、それでも小学生の時よりはまだましだなと思い直した。この界隈の小学生は地区ごとに児童公園に集まりラジオ体操をしなければならないのだ。
(確かそこの公園だったよなー。いやホント毎日バカみたいに参加してたっけ)
市営住宅のすぐ側に隣接して児童公園があった。腰より低い柵の向こう側では、子供達が買い物帰りの母親に連れられて無邪気に遊んでいる。水道の口を指で半分だけ塞ぎ周囲に水を飛ばしている子、逆にそれから逃げる子。水しぶきに太陽の光が当たり宙に小さな虹を作り出していた。
穏やかな昼の情景だ。
(いいよな、子供は楽で……って俺は?)
一人心の中で突っ込みつつ、公園の入り口の前を横切る。
入り口のすぐ側、木製のベンチ。
誰かが、一人ぽつんと座っている。
小さな老婆だった。
(?)
老婆は顔を上げ何かを見ている。
じっと。
思わずその視線の先を追っていた。
そこには。
一面の青空。
(なんだ……)
他には何もない。
俺はそのまま公園を通りすぎた。
いつも通り。
夏休み初日。
「うがぁーっ! 何でしょっぱなからテストなんてやるんだよ!」
「だよなー」
四階建ての近所の塾、生徒数も多い。
同じ中学の奴等も来ているので学校にいるのと大差ない。
午前中で講習は終わる。リノリウムの廊下を友人と愚痴を言いながら歩き、ビルを出てコンビニでペットボトルの炭酸飲料を買った。くだらない雑談をしては笑い、正午になったので別れる。
今日も晴れていた。
快晴とまではいかないがおおむね晴れで、白い雲がゆっくりと風に流されていく。歩道に植えられた木々の葉が、日の光を浴びてまぶしく輝いていた。
家までの道。
児童公園にも相変わらずのどかな光景。
木陰の下、乳母車を引いて歩く年若い母親。
元気よく遊ぶ子供達。
(あれ?)
入り口の前を通り、何気なく中に視線をやるとベンチに見覚えのある人物が座っていた。
空を見上げていた老婆。
(あのばーさん……日課なのかな)
今日も一人ぽつんと。
青い空を見ている。
そして俺もまた通りすぎた。
いつも通り。
それからの数日、老婆の姿を見ない日はなかった。
塾帰りの俺が通る時間、正午から夕方にかけて必ずそこに一人ぽつんと座っている。
外見からして七十から八十くらいだろう。白髪で小柄な老婆はただ空を眺めている。
よっぽど好きなんだなとか思いながら俺も通りすぎていた。
いつも通り。
八月五日。
朝から雲行きが怪しくて、絶対降るだろうと確信し傘を持って家を出た。講義を受けながらぼんやり窓の外を見ていたら、どんよりと曇った空からぽつりぽつりと雫が落ちる。
アスファルトに染みになって広がる。
雨、だ。
(やっぱ降り出したな)
生徒達もひそひそと話している。雨降ってる、傘忘れた、とか大体そんなところだ。
ふと脳裏にあの老婆の姿が思い出された。
(さすがに今日はいないよな)
講習が終わる頃には、雨は更にひどくなっていた。
黒い傘を差しながら帰り道を歩く。
柵の向こう、公園には誰もいない。
子供達も主婦達も。
無人の広場。
「!」
入り口を過ぎるまではそうだと思った。
それなのに。
(なんで?)
老婆はそこにいた。
雨の中にぽつんと一人。
傘も差さずぼんやりと。
すっかり指定席になったベンチに腰掛け。
灰色の空を、じっと見上げて。
いつもと同じように。
(おいマジかよ、あのばーさんの家族は一体何やってんだ……)
半ば呆れつつ通りすぎた。
通りすぎて、足が自然と重くなりやがて立ち止まる。
「……」
このまま見過ごしていいものだろうか。
まるで胸にトゲが刺さったようだ。
悩んだ末、踵を返した。
入り口を抜けてベンチの前に立つ。
雨の降りは少しずつ強くなっていた。
「おい、ばーさん!」
白髪の老婆がゆっくりとこちらを見る。
「こんな雨ん中何やってんだよ! 風邪ひくぞ!」
俺は傘を老婆の上まで伸ばしてやった。
ベンチの側に植えられている銀杏のおかげか老婆はまだずぶぬれではない。だがそうなるのも時間の問題だ。
「今日はさ、空見んのやめて帰んなよ?」
雨粒が半袖の白いシャツごと腕を濡らした。
背中にも数滴雫が落ちて冷たい。
「な?」
小さな老婆。
服も痩せた腕も髪も濡れている。
シワだらけの顔。
琥珀の瞳が俺を捉えた。
「……いるの」
「え?」
「待っているの」
「待ってる……って、雨降ってるじゃん! 家族か? 迎えに来んの待ってんのか?」
老婆は首を横に振った。
そして。
「大切な人を待っているの……」
目をきゅっと細める。
穏やかな微笑。
「大切な人って……」
俺は目の前で微笑む老婆の扱いに正直困っていた。もしかしたらボケているのかもしれない。今更ながらしまったと思った。
「今日は雨だから、そいつもきっと来れないんだよ。だから帰った方がいいって」
落ち着いた声音で言い聞かせた方が怒鳴るよりは効果があるだろう。ボケているにしろそうでないにしろ。
だが。
「ありがとう」
礼は言うが動く様子は一向にない。
あくまでも待つつもりなのだ。
ここ数日の老婆の姿を俺は思い出していた。
嘆息して水を含んだ前髪をかき上げる。
仕方ない。
「やる……っ」
黒い傘をぐっと突き出すと、老婆が細めていた目を少しだけ開いた。
驚いたのだろう。
断られるより先に、痩せたシワだらけの手に傘の柄を強引に握らせた。
「じゃーなっ!」
降り続く雨の中、駆け出す。
後ろは振り返らなかった。
俺にはこれしか方法が思いつかなくて。
『大切な人を待っているの……』
あの言葉と微笑みが頭から離れない。
彼女はいつも誰かを待っていたのだ。
(すげーな)
待ち人は現れるのだろうか。
次の日。
いい天気だった。
青い空に白い入道雲。
やはり彼女はそこにいた。
ベンチに座っていた老婆が俺に気づいてこちらを見る。
「……よぉ」
何となく照れ臭かったが、片手をあげ声をかけた。
彼女は笑顔で迎えてくれた。
軽く会釈して隣に腰掛ける。
「ばーさん、風邪ひかなかったんだな。……よかった」
俺の一言に老婆は柔らかく笑う。
「傘を、ありがとう」
「……今日も待ってんのか?」
シワだらけの白い手から丁寧に折り畳まれた黒い傘を受け取りながら俺は尋ねてみた。だが老婆は微笑むだけでその質問には答えてはくれない。
しばらく静かに時は過ぎた。
繰り返す蝉の鳴き声と、子供のはしゃぐ声、そして空を行く飛行機の音。
突然、彼女が口を開いた。
「ずっと前の今日、たくさんの人が死んでしまったの。知っている?」
「……え、あ、あぁ」
言われて近代史を思い出した。
今日は広島に原爆が投下された日だ。
「ばーさんは助かったんだ。よかったじゃん」
「そうだね。だけど、本当にいっぱい燃えたんだよ。人も物も何もかも……私は原爆を受けなかったけれど、きっと地獄絵図だったろうね広島も長崎も」
「……」
「私は戦争は嫌い。大事なものを奪うから」
隣に座る老婆の痩せた腕。
(あ……!)
白い肌にかすかに残っているのは火傷の痕だろうか。
「どうして争わなきゃいけなかったんだろう」
「……」
傘を握る手がかすかに震える。
老婆の言葉は重みがあり、俺は何も言えなかった。
それから毎日。
俺は誰かを待つ老婆の元へ通った。
約束したわけでもない。ただ何となく気になって足が自然と公園へ向くのだ。
老婆の隣に座り、話を聞き、夕方まで一緒にいた。まず老婆がボケていないことに安堵した。年の割にしっかりしているとさえ思う。
年齢差はあったが色々な話をした。
老婆の若いときの体験談や考えを聞き、俺は俺で愚痴や俺の持つ考えも話した。
不思議と老婆の側にいると居心地がいい。
俺にはもう祖父母がいなかったから、きっとそのせいだろうと思った。
難しいこともいくつか話した。
戦争、人の生き死に、政治、世の中。
たくさんのことを。
「輪廻ってわかる?」
「生まれ変わりとかそうゆーんだろ? 漫画とかでちょっとなら知ってる」
「仏教の考え方でね、霊魂は地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道に次々と生まれ変わり、車輪が回転するように永久に迷い続けるんだって」
「ふぅん。でもそれならいつかまた人に生まれ変われるんだろ?」
「そうだね。君は……信じる?」
「俺、仏教がどうとかわかんねーし、繰り返しから抜け出せないって言われると嫌だけど。例えば魂が更新しながら成長とか進歩して生きて行くって考えるなら悪くないって思う」
「……いいね、そういう考え方も」
「だろ? 漫画でよくあるんだ。恋人同士や友達が死んで生まれ変わって出逢うって奴。あれみたいにさ……別れてもいつかどこかで、逢いたい人に逢えるかもしれないし」
「本当に……そうだね」
しみじみと頷く老婆。
(あ……)
何となくだが、彼女の待ち人はここへ来ないような、いや来られないような気がした。
もう、この世にはいないのかも知れないと。
でもそれは聞かないでいようと思った。
「ばーさんは好きな奴を待ってるんだな」
そう言うと、老婆が頬を染めて俯く。
まるで少女のように。
八月十五日。
「今日は終戦記念日、だな」
昼下がり、いつも通り隣に座る。
俺の言葉に老婆は目を伏せて笑った。
「少し、思い出話をしましょうか」
そう言って、昔語りを始める。
「私には約束をした人がいたの」
老婆が俺と同い年くらいの頃はちょうど戦争の真っ直中。戦況も厳しく敗戦も間近だったという。父は戦死し母や兄妹達と生きて、だが度重なる空襲に家族は散り散りになり、自身も疎開先を転々と変えねばどこかで死んでいただろうと。
「あの時は生きようと必死だった」
老婆は空を仰ぐ。
青い空に一筋の飛行機雲が伸びていた。
白い線が真っ直ぐに。どこかへ。
「待っていると約束したから」
「その……好きな奴?」
老婆が小さく頷く。
「お国のために男達は皆戦場へ駆り出された。あの人もまた同じ」
――君にまた会いに行くよ。
約束の言葉。
今も瞼の裏に焼き付いて離れない笑顔。
そのたった二つだけを残して。
「彼は……帰っては来なかった」
「……ばーさん」
「わかっているの。あの人がとうの昔に亡くなったこと。知らせが届いていたから」
置き去りにされた。
いつまでも信じられずに待ち続け、泣き疲れたと老婆は悲しげに笑う。
「結局私も諦めて他の人と結婚した。子供もいるし君くらいの孫もちゃんといるの。主人は数年前にもう亡くなってしまったけれどね。私を大事にしてくれたわ」
「……今は幸せ?」
「そうね」
頷く彼女の瞳を見る。
濁りのない澄んだ琥珀。
偽りはなかった。
「じゃあ何で待ってんの?」
毎日毎日。
雨に打たれながらも猶。
意味深に彼女は微笑する。
「この空の下で待ってみたくなったの」
俺にはその言葉の意味はよくわからなかった。けれどどうしようもなく惹かれた。
なんて一途な想い。
きっと本当に好きだったんだ、と思う。
「俺がもしそいつだったら……」
無性に言いたくなった。
柄にもない言葉なのに。
「帰りたいって思っただろーな。死んでも、幽霊になっても、何でもいいから帰りたいってさ。きっとすっごく悔しかったろーな」
「え……?」
老婆が顔を上げこちらを見た。
大きく見開かれた瞳。
「だって、ばーさんいい女じゃん。こんなに想ってくれてるなら自分が帰らなかったら泣かせるってわかるし。好きな女なら絶対泣かせたくないって……ばーさん!?」
彼女の双眸から涙が溢れていた。
とめどなく。
「……っ」
シワがいっそう増える。
くしゃくしゃに顔を歪ませて泣き出した。
「あっ、悪いっ! ばーさん、ホントごめん! ごめんな! だから、泣かないで……」
老婆は声を殺しながら泣き、小さな肩を震わせている。その痩せこけた白い手が伸びて、俺の腕とシャツをぎゅっと掴んだ。
強く、強く。
「……ばーさん」
初めはどうしていいのかわからなかったが、そっと彼女の肩を抱き髪や背中を撫でてやる。
しばらくして落ち着いた老婆がハンカチで顔を拭い、最後には笑った。
「平気か、ばーさん? ごめん、俺何か無神経なこと言って……」
「いいえ、とても嬉しかった」
謝罪する俺に首を横に振り微笑む。
「……ありがとう」
その時の老婆の笑顔は優しくて綺麗だった。
俺は時間が許す限り老婆と会った。
大事な話をしてくれた後も彼女が俺を待っていてくれたのがとても嬉しかった。
老婆は自分のことも話してくれたが、それよりも俺のことを聞きたがった。どんな家族や友人に囲まれているか、学校ではどうなのか、これからどうしたいのか。
周囲のことはありきたりで普通だったし、具体的な将来の目的もまだなかったからかなり曖昧になってしまったが、それでも俺は一生懸命話した。
耳を傾けてくれた老婆。
彼女が笑うと嬉しくなった。
八月三十一日。
いつの間にか夏が終わろうとしていた。
明日からは新学期だ。
学校が始まると公園へ来るのは難しくなる。
老婆にどう切り出すか思案していた。
その時。
「あのね……私もうここには来られないの」
俺が言おうとしていたことを老婆が先に口にする。
だから逆に驚いてしまった。
「えっ、何で?」
澄みきった青い空。
でも。
風が少しだけ冷たかった。
時は確かに過ぎているのだ。
それだけは常に変わらず。
「実は他県の施設へ行くことになっていてね。これからはそこに住むのよ」
「施設って……だって家族、いるんだろ?」
ぴしゃりと冷水をかけられたみたいだった。
俺は勝手に想像し、老婆の家族に対する憤りと哀しさでいっぱいになった。
「家族が、勧めたのか?」
声が自然と低くなり詰まる。
「あぁ、違うの…大丈夫。これは私が前もって決めていたことなのよ」
老婆には俺が何を考えたのかわかったらしく、すぐに否定してくれた。
「家族に厄介払いされたわけじゃないの。だから大丈夫。今日まで私のわがままを許してくれた家族だもの。ね、そうでしょう?」
その言葉に少しだけ安堵する。
「……ならいいけど」
「ふふ、ありがとう。私のために怒ってくれて。優しいね」
そよぐ風に木々が揺れる。
「だから、この土地を離れてしまうそれまではここで待つことにしたの。約束をした場所の側で、ね」
「あぁ……そうか」
以前老婆が、この空の下で待ってみたくなったと言った意味が今やっとわかった。
老婆は空を見ている。
「来ないとわかっていても……待っていたかったの」
虚空へと放つ言葉。
「ずっと……」
きっとそこに待ち人がいるのだろう。
俺には見えないけれど。
「そっか」
心の中にぽっかり穴が空いたみたいだった。
「淋しくなるな」
素直にそう思い呟く。
老婆が柔らかく笑った。
――パッパー!
「?」
公園入り口の車道からクラクションの音が聞こえた。見ると一台の白いワゴン車が止まっている。助手席側の窓が開いて人が顔を出した。中年の女性だ。
「お義母さーん!」
老婆の家族だとわかる。
「まぁ、迎えに来てくれたのね」
彼女が穏やかに笑ったから。
「……なぁ」
ほんのわずかな時間、側にいただけで。
俺には何も出来なかった。
「いつか逢えるといいな」
夢でも、それこそ生まれ変わりでも。
そんな意味を込めて言った。
彼女がまた優しく微笑む。
「元気で」
俺は手を差し出した。握手をするために。
細いシワだらけの冷たい指がそっと絡む。
ひんやりとした心地よさ。
「……ありがとう」
笑う老婆はやっぱり綺麗だ。
するりと離れる指。
一度だけ視線を交わし、老婆は入り口へと歩き出した。
小さな背中。
車に乗り窓を開けてこちらを見る。
彼女の口元が何か、言葉を紡いだ。
同時に車が動き出す。
「……え?」
とびきり優しい笑顔で。
(さ、よ、う、な、ら……?)
聞き取れたのは別れの言葉。
「……っ!」
両眼から大粒の涙がこぼれ落ちた。
視界がグシャグシャになる。
老婆の姿も。
白いワゴンすら見えない。
この空の下。
どこにもいない。
(なん、で?)
胸に残るどうしようもない痛みも。
とめどなく溢れては落ちる涙も。
理解できなかった。
ただ。
もう二度と俺はあの老婆には会えない。
それだけは、はっきりわかる。
だから、泣きながら祈った。
(ばーさん)
一緒にいて楽しかった。
側にいると居心地がよくて。
話せてとても嬉しかった。
(いつかそいつに逢えるといいな)
例えばそれが俺だったら。
絶対逢いに行くから。
きっと。
(大丈夫だ)
待ち人にも。
いつか逢えるはず。
(それまでどうか……幸せに)
涙に濡れた俺の頬。
夏の終わりを告げる風が。
優しく撫でては通りすぎていく。
そっと。
まるで老婆の指のように。
「さよなら……ばーさん」
心地よい冷たさだけを残して。
車の後部座席に乗り込み、公園の入り口に立ち尽くす背の高い少年をとても懐かしい想いで見つめる。
面差しがよく似ていた。
笑顔も言葉遣いも何もかもが。
目の前に現れたときは驚いた。
『やる……っ』
同じ仕草、同じ言葉。
雨に濡れながら立ち去る後ろ姿さえも。
(ずっと前にも、傘をくれたね)
――君にまた会いに行くよ。
笑顔と言葉だけ置いて逝ってしまった。
何度後を追おうと思ったことか。
けれど。
(待っていたの……私)
会いに来ると言ったから。
心のどこかで信じていた。
信じたかった。
『俺がもしそいつだったら……帰りたいって思っただろーな。死んでも、幽霊になっても、何でもいいから帰りたいってさ。きっとすっごく悔しかったろーな』
何気ない言葉に激しく揺れた。
思わず叫びそうになった。
胸の痛みを。
『こんなに想ってくれてるなら自分が帰らなかったら泣かせるってわかるし。好きな女なら絶対泣かせたくないって……』
涙を止めることは出来なかったけれど。
あの時、彼に告げなくてよかった。
『いつか逢えるといいな』
心からそう願っていた。
祈りはとっくに空へ届いていた。
彼は気づかなかったけれど。
もう出逢っていたのだから。
真っ白な未来を待つ彼。
老いて先のない私。
それでも二人。
ほんのわずかでも。
言葉を交わし同じ時を過ごした。
その肌に触れ、ぬくもりをもらった。
覚えている。
忘れない。
きっと大丈夫。
だから。
笑顔でお別れを。
ありがとう。
愛しい人。
「さようなら…… あなた 」